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西尾氏手記の第一回目を四話として、昨日に日本インターネット新聞社に掲載して頂きました、JanJanNews「元特捜鬼検事 田中森一氏の取材者へ大阪地検が家宅捜索」の原文記事を掲載させて頂きます。
(参考)【JanJanNews】元特捜鬼検事「田中森一」氏の取材者へ大阪地検が家宅捜索
平成20年4月11日早朝、大阪地検特捜部の捜査員が、私の東京の自宅にやってきた。田中森一氏の関連容疑での家宅捜索だという。
私にとっての長くて短い一日の始まりであった。
平成20年4月11日午前7時。目黒区にある私の東京での住まいの玄関チャイムがけたたましく鳴り響いた。インターフォンで応答すると、早朝の訪問者がこう名乗った。
「大坂地検特捜部です。裁判所から家宅捜索と差し押さえの令状が出ていますので、これから執行いたします。」
この日から、さかのぼること9日前、私は東京小菅の東京拘置所にいた。私が数か月にわたり単独取材をさせていただいた、田中森一氏への面会に出向いたのであった。
前回の記事で記載してあるように、3月17日の田中氏と筆坂氏との共著「どん底の流儀」出版の集いを最後に、私なりに田中氏とお別れをしたつもりであった。
そんな田中氏が収監させた翌日の4月1日に、縁あって知り合えた「田中森一塾」事務局から私に一本の電話があった。内容は「田中氏不在の田中塾を続けて行くために、是非とも協力をお願いしたい。」とのことであった。瞬間、私なりに悩んだが、田中氏を擁護する目的ではなく、私なりの手記をさせてもらえるとの条件で快くお引受けをした。
翌日の面会は、その件を田中氏本人に報告させて頂くための目的であった。
所定の手続きと、検査をうけて、東京拘置所10階5号室で「受刑者田中森一」との面会が叶った。時間は午後2時を少しまわっていた。
本来なら、感激的な再会のシーンであるのかも知れないが、ガラス窓の向こう側の扉が開いた瞬間に、私は思わず顔を押えて笑ってしまった。
さすがの「元特捜鬼検事」「闇の守護神」の田中森一氏も、わたしの笑いにおもわず「何を笑っているの?」と問いかけてこられた。
私も思わず即答した。「郷に入れば郷に従え、さすがに田中先生ですね。どこからみても立派な受刑者ですよ」と。
それを聞かれた坊主刈りで不精ひげを蓄え、グレーの作業着みたいな服を纏われた「田中受刑者殿」もにっこり照れくさそうに笑われたのが印象的だった。
前日の田中森一塾事務局との話を御報告し、瞬間時計を見たら残り時間が4分だった。面会時間は10分と定められているのである。貴重な4分で二人が話したことと言えば、田中氏が、「封筒張りをやっているんだ。」「封筒張りなど経験あるのですか?」「ないない、でも学生時代のアルバイトを思いだすよな。」などの、どうでもいい話題で終わってしまったが、別れの瞬間にいつもの温かい眼差しだけは残してくれた。
私にとっての人生の中で、一番短い10分であったと、桜が満開の小菅の東京拘置所からの帰途の途中で思えた一日であった。
そして、その5日後の4月7日の朝、「田中森一受刑者、詐欺容疑で大阪地検特捜部が逮捕」というニュースが報道された。金融御者の9000万を、預かり金名目で騙し取ったという内容であった。正直、この件は田中氏を取材している時点でも、ささやかれていた事件である。しかし、私にとっては興味のないことで、どうでもいいことであった。
したがって、この報道にはなんら驚きや衝撃さえも感じなかった。それより、「田中森一塾」をとおして、今後何を伝え、何を主張していかなければならないのかと考えるほうが、私の思考を悩ませていた。
その日から、再度田中氏の著書や、関連記事を読み返し、睡眠不足のために、リビングのソファーで仮眠している朝の出来事であった。
ドアを開けるとともに、黒いスーツを着た大阪地検特捜部の面々が7,8人(多分)なだれ込んできた。その中のリーダー格の人物が、私の目の前に一枚の紙切れをまるで水戸黄門の印籠のごとく翳し、「裁判所から捜索差し押さえ令状が出ていますので、これから家宅捜索を行います。」と言い放った。紙切れには、「被疑者田中森一に対する詐欺被疑事件につき、平成20年4月11日東京都目黒区…西尾敏信方住居及び付属施設において…
これ以上は読み切れない速さで、次の紙切れを提示された。その紙切れには、虫眼鏡でもないと見えないような文字が並んでいた。
よくよく見ると、対象品目であった。最初の二行を拝見して、さすがの「活字中毒」の私もあほらしくなりやめてしまった。対象品目の内容は、人が人として生活するうえで、どこの暇人が考えてか知りたいぐらいの全てのものが記載されていた。引っ越しを予定していたならば完璧な項目内容である。(ごみ、ほこりはなかったかも)
しかも、ご丁寧にどこでどうやって調べたのか知らないが(まあ、調べのプロであるからか)私の会社(東京都港区)や、私の聖地でもある軽井沢の自宅の令状もご準備していただいており、軽井沢にいたっては、すでに数人の(3人)の職員が現地待機されていたのであった。驚きより、はっきり言えばあきれ果てた私は、そのリーダー各の男性にこう答えた。「で、なにが欲しいのですか?」すると男性はこう答えた。「それは言えません。」
訳のわからぬクイズ番組が始まった瞬間であった。まあ、編集をさせていただくと、
捜査官「出せ」
私「何を」
捜査官「言えない」
私「何で」
捜査官「言えない」
まあ、冷静に考えれば、この事件はまだ捜査中であり、捜査内容は明かせないのが原則である。したがって目的の品目も捜査内容の枠の中であることは間違いないのである。
お答えされている捜査官も、たぶんご自分のお答えに矛盾はお感じのことであろう。
そこで、私は一つの妥協案とも言える質問をした。
私「であれば、ヒントだけでも下さい。」
捜査官「……田中森一関連で残して行った資料等…」
会話が会話として少しだけ進展した瞬間であった。私は、それならばと連日読みふけってテーブルの上に散乱していた田中氏の著書や関連記事等を差し出した。
予測はしていたが、やはりご納得はしていただけなかった。そこで私は再度妥協案を提示した。
私「であれば、もう少しヒントを?」
捜査官「……田中森一が残したメモや、あなたが田中森一に聞いた内容のメモ等……」
やっと答えが分かった瞬間であった。が、残念ながら、我が家にはご希望の品目は存在しないことが分かった瞬間でもあった。(しいて言えば、帝国ホテルでいただいた、田中氏と筆坂氏の直筆サイン入りの「どん底の流儀」は該当品である?かな…)
まあ、この後のやりとりは、お互いの立場の最低限のモラルである秘守義務を考慮して、記載は控えさていただくが、押収品目は参照資料で興味のある方のみご覧下さい。ちなみに、領収書等在中の封筒とは、私の財布から抜き取った全ての領収書の事です。
目的を伺うと、「私の行動の足跡を辿る。」だそうです。?????
現代の世の中は、デジダル技術の飛躍的な発展で、先月私の聖地でもある軽井沢の森の中の自宅にさえデジタル回線が引きこまれ、東京となんら変わらない業務が出来るのである。
もし、私が「田中森一」の取材で知り得た音声、映像、記録等が存在していたとしても、すべてデジタル暗号化され、瞬間的にサーバーという金庫に納められ、セキュリテイという警備員に守られ、ID、PASSという鍵で施錠されているわけである。
したがって、「ライブドア事件」で、東京地検特捜部が該当するサーバー自体を押収したのもそのような理由である。
しつこい様だがこれは、あくまで例えの話である。
余談であるが、弊社の経理担当者は別名「鬼の金庫番」と呼ばれ、月が変わった時点で理由の有無を問わず一切の清算を拒む輩である。「使用後は返して下さい」と検察庁所定の書面に記載はしたが、何卒よろしくお願いしたいものだ。
「特捜鬼検事」「闇の守護神」「受刑者」田中森一氏を趣味というのは失礼にあたるが、それに近い感覚で単独取材を行っていた一市民の私のもとへ、ご丁寧にも裁判所へ礼状まで請求し、交通費をかけ、大挙して訪れられた意図は、未だに持ってまったく理解不能であるが、そのような決断をした名前すら知らない大阪地検特捜部検事殿の、私に対する礼儀、気使い、思いやりには、本心で尊敬に値した。(これは皮肉ではない)その時点でのお互いの立場を考慮しても、彼らを手ぶらでお帰しするのは私としても忍びなかった。そこで私が唯一所有していた「田中森一」直筆の品目を告白した。
それは、田中氏が「石橋産業事件」で1年近く収監されていた東京拘置所での自らの気持ちを書きとめた、古びた大学ノートの日記であった。
私が書いた前々回の記事を読まれたご本人から、「何かの役に立ててくれ」といただいた、私にとっては貴重な思い出の品であった。
そのようなものが、今回の田中氏の事件と何の関連性があるのか意味が分らぬが、即答で捜査官に提出を求められた。しかし、残念ながら、私の自宅にも関連施設にも、その日記は置いてなかったのである。その場所は、東京文京区にある「光文社」の編集金庫の中であった。前日に奇遇にも私が預けていたのであった。
法的に言えば、捜索押収礼状に該当しない場所の品目であるため、拒否をすれば良かったのだが、先に記載したとおり、彼らへのせめてものお返しのために告白した目的であるため、無条件で「任意提出」に私は応じた。
その日記の詳細は、近い将来に「光文社」の写真週刊誌を通じて読者の目に触れることであろう。
早朝からの「大阪地検特捜部」による家宅捜索を終えた私は、捜査官の車に乗り、自宅を後にした。時間は昼の12時を少し回っていた。
「光文社第二ビル」の前の路上の車内で、すでに編集作業が終わっていた日記を捜査官に渡し、所定の手続きを行い、捜査官の方々にお別れを告げようとすると、最後の最後までご丁寧に、次の私の目的地である東京霞が関の東京地裁に隣接する「弁護士会館」まで送っていただいた。
これもまた余談であるが、「弁護士会館」地下1階の「桂」という店のココアは絶品である。私は定期的に顧問で、親友で、人生の大先輩である弁護士の方と、この「桂」でココアを飲み、世間話を楽しむ習慣がある。まさにこの日も、その日であった。ココア好きの読者の方は機会があればお試し下さい。
そんな私を送ってくださっている車内の中は、妙な沈黙の空気が漂っていた。
その空気を、私の隣に座っていた、いわゆるリーダー格(呼び名が分らなので失礼)の捜査官が変えて下さった。
その方は、今回の捜査で参考のために、田中氏を代表する著書「反転」を購読されていたそうだ。おかげで私も変な肩の力が抜け、「では、どのような感想でした?」と気軽に質問できた。しかし、不思議なものである。今、この記事を書いている時でも、その方が話された感想の言葉を全く思い出せない。記憶を一生懸命辿っても、思い出すのは語られている内容ではなく、語られている捜査官の眼差しだけである。最初に出会ったときの田中森一氏と同じ、温かい眼差しであった。
皮肉なものである。今回の事件後に「田中森一塾」になにを伝えればいいのか私の思考を悩ませていた答えを教えてくれたのが、田中氏の怒涛の人生の出発点であった大阪地検特捜部の捜査官の方々であった。
「田中森一塾」が、あえて「田中森一塾」を継続していくのであれば、誰よりも「田中森一」を非難し、誰よりも「田中森一」を擁護し、そして設立の目的をもう一度それぞれが思い起こしてみるべき時であるのではないかと私は思います。
そして、「特捜鬼検事」でも「闇の守護神」でも「犯罪受刑者」でもない「人間田中森一」の夢をきっかけに、それを共感した人々の集える場となれれば、必ず社会は認めてくれると私は信じます。
もし、私に「弁護士」バッチがあり、もし、田中森一氏に専任されていたならば、彼にもこう伝えると思う。
なによりも貴方を支持して招いてくれた、「袴田さんの会」をはじめとする団体の方々、貴方の著書に感銘し、応援のお手紙を送ってくださった沢山の方々、貴方とともに共著をされた筆坂先生をはじめとする著名人の方々、そして帝国ホテルに集われた多くの方々、そして貴方の夢に共感し、これからも変わらぬ活動を継続されていく「田中森一塾」の方々のためにも、貴方の信念と潔さ、を少なくとも私は信じ、期待したいものであるということも。
私は「田中森一」という人物の取材で、私なりに日本の司法そのものに対して、不安や絶望感を感じてきた。
しかし、この日に出会えた検察関係者の方々がいるかぎり、多少の希望が芽生えたのも事実であり、得意の追記としてあえて記載させていただく。
前略
今回の決定をされた、名前すら知らない「大阪地検特捜部」の検事殿、今回の事件の発端となった福岡あたりで検察幹部を歴任され、元という肩書のみで金儲けの人生を送っていらっしゃる御仁へ。次回またこのような決定をされるのであれば、ぜひとも押収品目目録に「私の記憶」を追記載していただきたいものである。
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